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 2発の原子爆弾が広島と長崎の街を一瞬に壊滅させた、あの夏から80年。惨禍を伝える遺構は世界遺産の原爆ドーム(広島市)があまりにも有名だが、それだけではない。二つの街には、国の史跡に近年指定された「原爆遺跡」もある。現地を訪ね、約21万人もの尊い命を奪った被爆の実相を確かめた。

保存された地下室、唯一の生存者

 第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月6日、米軍は広島市に人類史上初の原爆を投下した。復興が進む中で多くの建物が撤去されたが、今も市内に86件の被爆建物が残る。うち6件が昨年、史跡「広島原爆遺跡」に指定された。

 6件を自転車で回ることにした。最初は爆心地からわずか170メートルの旧燃料会館(現・平和記念公園レストハウス)。元々は呉服店だった鉄筋コンクリートのモダンな建物だ。アニメ映画「この世界の片隅に」にも描かれた。しかし、戦局の悪化で繊維が統制されて閉店し、広島県燃料配給統制組合の事務所になっていた。

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広島原爆遺跡の一つ、旧燃料会館(現・平和記念公園レストハウス)の地下室。ここにいた1人が奇跡的に助かった=2025年7月21日、広島市中区、筒井次郎撮影

 あの日、37人が勤務していた。生存したのはわずか1人。たまたま書類を取りに地下室に下りた47歳の男性だ。

 地下室は一般公開されている。薄暗く、天井や梁(はり)には煤(すす)が残る。火災の痕跡だ。生存者の体験が掲示されていた。

 《ドーンというかなり大きな音が聞こえた。痛い。手を頭にやってみた。血だ。死は時間の問題だと思った。急いで外に出た。そこは火と煙の地獄だった》。読み進めると胸が苦しくなった。多くの外国人観光客も、静かに見入っていた。

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広島原爆遺跡の一つ、旧本川国民学校校舎(現・本川小学校平和資料館)。一部が保存された=2025年7月21日、広島市中区、筒井次郎撮影

 次に旧本川国民学校校舎(現・本川小学校平和資料館)を訪ねた。爆心地の西410メートル。市内の公立小学校で最初の鉄筋コンクリート造りの校舎だった。戦後も使われたが、87年に解体が決定。その際に一部が保存され、翌年に資料館となった。1階と地階に焼けた配電盤や戸枠などが残る。

 教職員十数人と児童400人が犠牲になった中、靴脱ぎ場の壁の後ろで奇跡的に助かった命があった。その女児の名字(旧姓)を知り、体が固まった。私と同じ「筒井」。人ごととは思えなくなった。

 体験が展示されていた。

 《上ばきにはきかえようとした瞬間、真っ暗になった。校庭に出ると見渡す限り火の海。校舎のすべての窓から炎がふき出していた。近くの川に入った。川底に足がとどかず、ほとんどの子が力つきていった。死体がすぐそばを次々と流れていった》。40代で原爆の影響とみられる病気になり、69歳の時から被爆体験の証言活動を始めた。82歳で亡くなったそうだ。

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広島原爆遺跡の一つ、旧袋町国民学校校舎(現・袋町小学校平和資料館)。現代の建物にはさまれる形で、旧校舎の一部が保存された=2025年7月22日、広島市中区、筒井次郎撮影

「願い」込めたチョークの伝言

 鉄筋コンクリートの旧校舎はもう一つある。爆心地の南東460メートルにある旧袋町国民学校校舎(現・袋町小学校平和資料館)は、近代的な建物に囲まれて保存されている。

 印象的なのは、煤で黒くなった階段の壁にチョークで書かれた伝言だ。被爆後にカメラマンが撮影していた。戦後の補修で漆喰(しっくい)に覆われたが、99年にはがして再確認された。

 そこに記された家族の消息や、人を捜しているという伝言を読むと、暗闇だけでない、何か小さな灯(あか)りのようなものを感じた。「絶望の中を懸命に生きた人たちが込めた、わずかな願いだったのかもしれません」。案内役を務める藤林浩二さん(73)が語った。

記事の後半では長崎に向かい、福山雅治さんの名曲「クスノキ」のモデルとなった神社の被爆樹木を訪ねます。

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広島原爆遺跡の一つ、多聞院鐘楼。破壊された天井部は被爆時のまま残されている=2025年7月21日、広島市南区、筒井次郎撮影

 残るは3件。旧日本銀行広島…

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